縁起修正主義

ごま豆富とか書かれると一瞬なんだかわからない。

 街中や、近くのスーパーのテナントで、よく「豆富」という表現を見ます。これが気になるんです。

この表現ですが、

笹乃雪が豆腐を「豆富」と記すわけ
笹乃雪では豆腐のことを「豆富」と書いて「とうふ」と読みます。
その由来は今からさかのぼること80年ほど前
9代目当主 奥村多吉が料理店に「腐る」という字は
ふさわしくない、という理由で「豆富」と記すようになりました。
今では、「豆富」という字も日本中で使われているようです。

http://www.sasanoyuki.com/iware/

という由来があるそうです。もちろん「腐」だろうと「富」だろうと味に違いはないですから、これは一種の縁起担ぎといえます。

えー、でもでも縁起担ぐなんて普通じゃーん。

 そもそも、縁起を気にするなんていうのはありふれたことです。4と9、西洋なら13なんかを始め、あげればキリがありません。そのような中、この表現が気になるのは「いままでもあったのにここ数年で一気に広まった」ということです。ここに色々なことを考えてしまいます。

縁起修正主義

 一つは「マーケティング」なんだろうなという想像です。健康指向のなかで注目を得るためにこの表現が使われたのでしょう。
 もう一つは「この時代にまだ縁起って重視されるのか」ということです。特に新しい縁起担ぎができて、それが定着していくというのはリテラシーや批判的思考力に一抹の不安を感じてしまいます。

納豆と豆腐は途中で言葉が逆になった説があるそうです。

 そして最も強く感じたのは「良くない言葉をいい言葉に変えるのはいいことなのか?」ということです。「腐」というのは確かに一般にいい単語ではありません。しかし、

「腐」は「腐敗」の意味ではなく、中国でヨーグルトを「乳腐」と言うように、固体でも液体に近いものもさすことから、「豆腐」と書かれるようになった。

http://gogen-allguide.com/to/toufu.html

というように「腐る」とは違うわけです。しかし、イメージが悪いといってそれを「富」に切り替えるわけです。私はそこに「良くないもの、醜いものを退けて、良いもの、きれいなものに変える」という意識を感じてしまいます。それ自体は悪いことではないし、「豆富」という表現を考えたり使われている方は本気で豆腐に誇りを持って使われていると思います。しかし、結果としてそのような積み重ねが「良くないものを許さず、きれいで良いものしか表に出されない」生きづらい社会を作る可能性もあるのではないかと思います。実際には良くないもの、汚いもの、醜いものもあるのが現実なのですから。

で、なんで縁起修正主義なんて言ったかというと

マーケティング
リテラシーの謳われる現代でもまだ起きる」
「良くないもの、醜いものを避ける」

というところが歴史修正主義に似ていないかなぁと。豆腐料理を真面目に作られている方にはとても申し訳ないですが。