主語について

blogを書くにあたり、「主語」に気をつけよう、できる限りはっきりしようと思っています。


これ、私が尊敬する森達也さんが、「世界が完全に思考停止する前に」で言っていたことから来てるんです。

遺族や被害者が憎悪や報復感情に捉われることは当たり前だ、なぜなら彼らは当事者だ。この感情を社会が共有しようとするとき、一人称であるはずの主語がいつのまにか消失する。本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。でも主語を喪った(うしなった)憎悪は、実のところ心地よい。だからこそ暴走するし感染力も強い。

この文で書いてあることはいくらでも具体例が浮かぶと思います。「被害者・遺族感情」によって「他者の感情に自分の心を託して」感情を表出するのはよくあることです。私は、これを自分のblogではできるだけやらないようにしようと思います。理由は、

1:無責任にどこまでもいけるから
2:「紋切り型」になってつまらないから

というところです。


 ところで、前述のような例は「感情」だけではなく「行為」にもあてはまるのでないでしょうか。「他人の感情・行為を理由にして」何かをするというのは良くあります。そしてこれも無責任にどこまでもいってしまうものかもしれません。「みんながやったから」不正をするとか、集団レイプをする。特に性犯罪では「相手が同意していた」などの理由を言う方が多いですね。もちろんこの「他人の感情」は妄想の産物なのですが、妄想でも理由ができてしまったから止まらないのでしょう。

さて、私がよく訪問している非国民通信様にこんな記事がありました。

その手の人が好むモノ@非国民通信
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/50e07c297a9557442c79d338298035dd

和姦モノがエロゲは3割以上? いやいや、そんなものじゃありません、売上ベース――流通量で見るなら9割以上は和姦ものですよ。

変態的なシチュエーションを好む人ほど良心的で、逆に和姦一色のエロゲーを好む人々の中にこそ、問題のある考え方、発言が目立つような気がします。

という言葉がありました。エロゲ−に詳しくない私はとりあえずこの発言を信じるとします。これはどこから来るのだろうと私は考えたのですが、それも「主語の喪失」かもしれないなと思ったのです。和姦もののゲームは非国民通信様の過去の記事によると「女の子が自発的に主人公である男性に奉仕する」ものが多いそうです。ここでは「相手の奉仕したいという感情」に自分の行為を理由づけることができます。これは「主語のない」感情や行為と重なると思います。それが、「主語のない」憎悪と同じように心地良いのではないでしょうか。主語がないのですから、自分の主体性を放棄してどこまでも無責任に問題のある考え方にいけるのではないかと思ったのです。逆に「凌辱イラネ」は、凌辱は相手が拒否の感情を示すわけですから、それが自分の主体性を表明せざるをえないというところを嫌がっているのかもしれません。

前回「レイプレイ」について書きましたが、もしかすると「レイプレイ」より女性が積極的に「犯してくださいぃ…」みたいに強姦を望んでくるゲームの方がウケるかもしれないし、その方が性規範や性犯罪へのドライブは強いかもしれません。とはいえ性被害者を始めとした人が抱く不快感や「レイプとセックスは全然違う」などの論点はまだまだ残りますが。