設備より意識がバリアフリーできてない。

内閣府が行った調査によりますと、ほとんどの人が障害のある人とともに生活できる社会が望ましいとしながらも、施設のバリアフリー化など、障害者への配慮やくふうがなくても「差別にあたらない」と考えている人が3分の1を超えていることがわかりました。
(リンク先は動画などあり多少重いです。)

NHKニュース 障害者への配慮 十分浸透せず


「障がいのある人とともに生活できる社会を望む」気持ちと、「障がい者への配慮や工夫が必要だ」という本来ならリンクしていてもよさそうな調査結果にギャップがあるという記事です。私は、このギャップは「差別」という強く、悪いイメージをつけられた言葉にある程度の人が拒否反応を示したのもかなりの部分を占める(「配慮が足りない」「バリアフリーであるべきだ」などの表現を使えば相当比率は変わったと思います。)ではないかと考えています。とはいえ、少しは実際にギャップもあるのかなぁと思います。そして、共生社会というテーマが観念的な調査から実際の法などの整備に変わっていくとき、このギャップはさらに明確に、大きなものになっていたという現実に向き合うこととなる可能性さえあると思います。

観念としての「共生社会」と、実践としての「共生」は似て非なるものです。実際に「共生」を行うには、まだまだ多くの壁があります。それは、設備投資であったり、健常者の意識の変化を必要とするものだったりします。設備は予算注ぎ込んでもいいのですが、意識はなかなか難しいものです。先日問題となった脳性まひの子どもの中学校進学を学校が認めなかった話は、この両方が絡んでいると言えるでしょう。本来設置しておくべきスロープがないのもありますが、厄介事を避けたいという心が働いた部分も大きいのかもしれません。また、一人のためにスロープをつけるなどするためにお金を使うことに否定的な人もいるでしょう。もし、本気の「共生」を考えるなら、必ずこのような意識は問題になるはずです。「共生」するためには「相手の10の利益のために自分が0.1我慢する」ことが必要になると考えています。その意識があれば「共生社会」は到来するでしょう。しかし、意識を変えることがいつも最も難しい課題なのです。これはお説教や説得ではおそらく大きくは効きません。行政や立法が、シンポジウムとか言ってないで意識を違う方向から変えていくように予算を使う必要があります。現状でも行っているのですが、まだ足りないでしょう。
私は、障がい者が生きやすい社会を作ることは誰もが生きやすい社会を作るきっかけになると思っています。その日が来るまで、自分だけでも0.1を我慢していこうと思うのです。