こういう話を、私はしたかったのかな?

一つの疑問

この場末のblogを読んでいる方が知らないとは思えないのですが、多面体様が運営されている「あなたは悪くない」というblogがあります。性被害者の権利を守るためのすばらしいblogです。そのなかの、http://manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-25.html」の最後にこのような表現がありました。

責任は全て加害者にあるのだから。

私、この言葉に違和感を覚えてしまったのです。

もちろん、被害者にも責任があるなんてことをいいたいわけではありません。私が感じるのは

傍観者に責任はないのか?

ということです。

加害をしない私たちは被害者よりか?

この記事では、このような表現があります。

いわれのない誹謗中傷、人格攻撃を、どうしてそんなに気軽にできるのだろう??

もちろん司法や報道の問題はあるでしょう。しかし、「被害者」でも「加害者」でも「二次加害者」でもない私を含めた傍観者が、「加害者」につくではないにしても、「加害者」が最高に悪いと思っているとしても、

・ただ見ている
・自分がトラブルに巻き込まれないように距離をおく
・優しい言葉とともに「被害者のことを本気で心配して」被害者に「あなたもうかつだったね」みたいなことを言う

ことで実質的に加害行為、誹謗中傷の後押しをしていることはそろそろ責められなければいけないのかなと思うのです。そりゃあ、刃物持ってるやつに立ち向かえとは言えないですよ。でも、小さなことはできるのではないですか?

たとえば、性被害者の人は悪くないと考えていることを表明する。
セクハラしている人に注意する。
まずは自分だけでも知識を深める。
普段の会話で性差別っぽいこと言ってる人には「そんなことないよ」と言う。
ああ、かなり簡単な方法として「性犯罪に取り組んでくれそうな議員に投票する」という行為もありますね。

しかし、多くの人はしないでしょう。私も、少しはやりますが、きっとまだ足りないです。
やっぱり、私も含めて怖いのです。立場を失うのが。政治的なことを言ううざい人と思われるのが。「KY」と呼ばれるのが。要は自分を守りたいのです。安寧を守りたいのです。

私も、友人どうしのカップルでデートレイプがあったとき、別れさせることはしましたが基本的には被害を受けた女性を慰めこそすれ、穏便に済ませた記憶があります。それはそれでよかったのですが、もしかすると被害者に見えないように加害者と会話して問うべきだったのかと思います。将来の被害を私が消極的とはいえ放置したかもしれないのです。

でも、リスクはとれなかった。争いを怖がったのです。

また、前回明花さんの入学問題で色々な批判コメントを頂きましたが、私はそのコメントに「変わることへの恐怖を感じ、変わらないための理由を探す」ような感じを見ていました。踏み込めば当然社会は変わります。変われば何かをうしなうかもしれない。それを恐れているのでしょうか。誰かに大きな犠牲を強いるとしても。

安寧罪はないけれど

しかし、私たちはそんなこと言っていていいのでしょうか。私たちの安寧の裏で、いや、私たちが安寧を得るがために、

性被害者は泣き寝入りを続け
B型がそれだけでバッシングを受け
障がい者は社会の見えづらいところに置かれ
若年ワーキングプアが貧困に喘ぎ
年数十人の餓死者が出て
3万人以上の自殺者が出る

世の中を消極的に守ってきたのではないでしょうか。共犯と言われても仕方ないかもしれません。通り魔が、安寧のなかにいる私たちに向かってくるのは、ある意味で当然かもしれません。
私は「世の中の意識が〜」っていうのは基本嫌いです。でも、これはそういうしかなかったです。

一歩踏み出せないなら半歩、半歩踏み出せないならすり足でほんの少し、踏み出しましょう。リスクを背負いましょう。「私も苦しいんだ!」、だからこそ私たちがほんの少しリスクを背負えば、きっと本気で苦しい人がかなり楽になり、そして私たちの苦しみもみんなが分配して背負ってくれる。そんな社会のほうがいいと思いませんか?