いるか缶の癖に愛を語る

いるか缶の癖に生意気な!

 最近、婆星*1という女性のセックスグッズ販売店店主が送るポッドキャストを聞き始めたのですが、この中で最近若い女性が男性の暴力や束縛などに対して、「それは深く愛されている証拠」として受け入れる、あるいは他の女性に対して受け入れるべきという人が増えているという話がありました。これ自体はわかるようなわからないような、確かにそうなりそうな女性もいないこともないなぁ、と思うのですが、これがなぜなのか?というのが疑問でした。同じ保守化?傾向でも専業主婦指向の高まりなら「専業主夫指向も高まってるし、現代の企業社会で働きたくないだけでは?」と思うのですが。
 さて、昨日のアクセスで、石田純一さんと東尾理子さんの交際から「年の離れたカップルはありか?」という話がありました。そのときに、過去の社会通念が現代では崩れているという表現を使っていたのです。その時に頭が回転してきたのです。

愛があれば love is OK?

 社会通念から離れたカップル(年の離れたカップル、同性カップル、主夫カップルetc…、もしかすると昔は共働きも含まれたかもしれません。)が表現として「愛さえあれば」という言葉を使うことがあります。愛さえあれば年の差なんて、性別なんて…と。まあこれ自体は本当なのでしょうし、通念と違うことへの批判にたいしての拠りどころとして「愛」は非常に有効だと思います。そして、「愛があればいいよね」として、この主張は原則受け入れられているように感じます。

 しかし、この「愛があればいいよね」が逆説的に人を苦しめている可能性があるのかなと思うのです。そう、「愛がある」なら暴力もOKみたいな感覚があるのではないかと思ったのです。また、「愛があれば」を少しひねると「愛しかない」「愛しかあっちゃいけない」と言う状況につながります。他に何もなくただ「愛」だけがある2人の世界。あらゆる行為が「愛」に回収されて行く世界。その中で暴力さえも「愛」として解釈されていくのかなと、あるいは暴力を「愛」と解釈しなければ絶対である「愛」に対する裏切りになってしまうという不安があるのではないか、そんな感想を抱いたのです。

 しかし、この「愛」しかない世界は当然幻想です。怖いのはカップルのうちの片方だけその幻想に入り込んでいたら…(両方が入っていることの問題もあるでしょうが)。ものすごい支配関係ができるでしょう。ホストと客のように。上記の女性がそのような状態にいるとしたら非常に心配です。

愛(じゃないもの)をとりもどせ!

 さて、「愛があればいいよね」がダメだとするとどうすればいいのでしょうか。もちろん、「愛なんてなくていいじゃん」とは思いません。そんなの私がいやです(笑)大事なのは、愛の下敷きになるものが必要だと思うのです。それは「信頼」とか「尊敬」とか「パートナーシップ」かもしれませんが、そのようなものを軸として「愛」があればいいのではないかなと思います。これは私の周りのカップルでうまくいってるのは「信頼」とか「尊敬」を持っているカップルであるという印象論だけなのですが。

Love day after tomorrow

 ここで話したかったのは「戦前回帰ではないのでは?」というところもあります。まさに戦後的、21世紀的な発想が、実は何かの欠落を生んでいてそれが苦しめている素なのではないかなと思ったのです。このようなことはきっと恋愛以外にも当て嵌まるかなと思います。

ここまで書いて、「こんなこと誰か過去に書いただろ」と不安になってしまったわけですが(笑)、あとセカイ系?とか、加藤ミリヤあたりの歌詞世界とも絡みそうなんですけど、あまりわからないのでちょっと言及できません。