「護憲」と「差別」について私が感じること

昔の話

 私、昔反戦・平和活動をしている団体のイベントに参加したことがあります。
 それは、特になんてことのない講演会でした。まあ平和団体のイベントってことで平和に関する歌を唄ったりしましたが。
 さて、終わったあとホールの外に出て気づいたのですが、外に警察がいっぱいいたんですよ。護送車みたいなのもいて偉く仰々しいな思いました。ホールの他のところで何か有名人でも来ているのかなぁと思い、その講演会に連れて来てくれた平和活動をしている友人に聞いてみると、当たり前のように
 「あれ全部俺らの監視」と言われびっくりしたんですよ。
 今となってはびっくりもしないし、その当時でも公安警察反戦平和団体の関係とかは話には聞いていたのですが、まさかこんな何もない講演会にあんなに来るとは思わなかったんですよ。非常にびっくりしたと同時に、やっぱり顔見られてないか気になってしまいました。私の家の近くだったので、何か知り合いに見られたらまずいんだろうかとも思いました。
 その後、その友人が色々やる手伝いをしたのですね。プリントを作ったり。でも友人は「この経験は就職活動では言えないね」と笑い混じりに言ってたわけです。

一ヶ月前の話

 前に城内実関係のエントリで、

そして、リベラル・左派でレイシストというのが理解できません。矛盾しているように感じます。

http://d.hatena.ne.jp/canneddolphin/20090910/1252589646

と書きました。私がそう思った理由の大きな部分が前述の経験にあるのです。私は思います。

「戦争に反対したり、平和を訴えたりする活動は、それ自体が差別や偏見との戦いだったのではないか」と。そのような人が、外国人や、被差別部落の問題には強く出なかったりするのはどうも納得いきません。そりゃあ、全てのことには関われないのかもしれませんが。
 また、言うまでもなく、差別・偏見が戦争へ向かうステップとされます。例は出すまでもないでしょう。そんなこともあり、ずっと考えていたのですがやっぱり「護憲・平和・反戦」で「差別的」というのは矛盾していると思います。もちろん、人間に完璧は不可能です。私だって差別的な感情が浮かぶことがあります。それでも、そうでない方向へ進みつづけるという気持ちは持っていてほしいのです。というより、差別のない社会を考える前に、自分の差別性を考えてほしいなあと思います。被差別性も大事ですけどね。