いるか缶と国旗・国歌

今このような話題があります。

 上田清司埼玉県知事は1日の県議会本会議で、県立学校の式典で君が代斉唱時に起立しない教員がいることについて「式典のルールに従って模範を示さなければならない教員が模範にならないようでは、どうにもならない」と述べた。その上で「そもそも、日本の国旗や国歌が嫌いだというような教員は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と強調した。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009070100819

中学・高校のころの私は、「国歌・国旗に敬意を表す、いやひざまづけない教員は処分されて当然」と思っていました。私は私立に通っていたので、君が代を唄うことは少なかったのですが、その時にはかなり大きな声でしっかりと唄っていました。それが正しい日本人だと思っていたのです。今回上田知事に9割の賛成メールが来たといいます。でもきっと、あの時の私のほうがその方々のほとんどより大きな声で唄っていたでしょう。

しかし、私に転機が来ます。私立に通っていた私は卒業式の実際を知らなかったのです。

そのために、2年前、12項目におよぶ通達を出した。国旗は舞台の壇上正面に掲げる。教職員は指定された席で起立し、国歌を斉唱する。児童生徒も必ず正面を向いて座る。

校長には、この通達に基づいて教職員一人ひとりに職務命令を出すよう求めた。式場での座席表まで作らせて、都の職員を学校に派遣し、監視した。

http://www7.plala.or.jp/machikun/shasetukun12.htm

実際に見たのはこの記事ではないですが、おおよそこのような話と、ある学校で生徒が卒業式を企画するスタイルを、この教委の意に沿うため無しにしたという話を聞きました。衝撃でした。

なぜ、ここまで形式にこだわるんだ?
「国を愛する」とかじゃなく、「管理・支配」がメインなのか?

それから、私は国歌斉唱がうまくできなくなりました。君が代に対して、何か重いものを感じてしまうのです。
それは何と言うか、その方向に走ることで切り捨ててしまうもの、それに重要性を感じだしたといえるかもしれません。
また、国という大きな物に自分を大きく委ねることが、先のエントリで述べた「主語の喪失」に感じられるのもあるかもしれません。

あ、君が代を唄う人は肯定します。むしろ私の代わりに唄ってくれてありがとうといいたいです。ただ、大きな物に隠れて切り捨てられている部分にたまには気を回してほしいのです。